藤本鉄石28幻の攘夷

文久三年三月三日、関白鷹司輔熙たかつかさすけひろより、江戸浪士組に対し

このたび横浜港へイギリス軍艦渡来、昨戌年島津三郎久光儀、江戸表出立の節、生麦においてイギリス人両人打ち果たし候儀に付き、三条の儀申し立て、いずれも聞き届けがたき筋に付き、その旨応接に及び候間、速やかに戦争に相成るべきことに候。よってその方引き連れ候浪士共、早帰府いたし、江戸表において差図を受け、尽忠粉骨相勤め候様致さるべく候。

とする達しが下されました。英国軍艦が横浜にやって来たが、生麦事件に対するイギリスの申し立てはとても受け入れられる内容ではないから、間もなく戦争になるだろう。だから速やかに江戸に戻って幕府の指図を仰ぎ、国のために働いて欲しいと言うのです。

いよいよだな

清河八郎も藤本鉄石も、あるいは他の東西浪士組の隊士たちも皆そう感じた事でしょう。更にその四日後の三月七日、将軍徳川家茂は参内して孝明天皇と対面し、幕府が攘夷を実行する事を約束しています。

そして翌三月八日、浪士組に対して江戸帰府の命令が正式に下されるのですが、この帰東に異を唱える者たちがいました。近藤勇をはじめとする天然理心流一派と、水戸浪士芹沢鴨などでした。

近藤や芹澤らのグループは、清河八郎の考えに賛成出来なかったから江戸に残ったと言われています。たしかにそれは正しいのかも知れませんが、一方で清河八郎の側からしても、未だに十分な人数が揃ったとは言えない在京浪士組頭藤本鉄石の為に、手駒を少し残してやりたいという思いもあったのではないかと思われます。いずれにせよ、彼ら残留組がのちに新選組となり京の巷にその名を轟かす事になる事は今さら説明するまでもないでしょう。

浪士組取締役鵜殿鳩翁は殿内義雄家里次郎の二人を京都残留浪士の取りまとめ役に指名しましたが、この二人は何れも清河藤本鉄石の同志であった本間精一郎とつながりのある人物である事から、少なくとも二人が京都に残り鉄石と合流する事は、はじめから折り込み済みだったのではないかと思われます。

そして三月十三日、清河八郎率いる浪士組は京の都をあとにして江戸へと旅立って行きました。おそらくこれが今生の別れとなる事は、八郎も鉄石も薄感じていた事でしょう。

その浪士組がまだ江戸にたどり着く前の三月二十五日、四条大橋上において殿内義雄が暗殺されてしまいます。襲ったのは近藤、芹澤でした。近藤は殿内が失策など仕りなので天誅を加えたと手紙に書き、また一般に内部の主導権争いの結果だと言われていますが、これまでの経緯を考えると果たして本当にそうだったのか、大いに疑問に思います。殿内義雄の暗殺には、もっと大きな力が動いていたとしか僕には思えません。そしてその毒牙は、彼らの同志を次と葬っていくのでした。